マーライオン「ばらアイス」インタビュー:前編

文:天野龍太郎


マーライオン。シンガー・ソングライター。〈NIYANIYA RECORDS〉主催。またの名を「キング・オブ・前座」。2年ぶりの新作『ばらアイス』。素っ裸でど直球のひとりロックンロール・アルバム。ただギターとうた、旋律と詩、それだけ。

たった17分の『ばらアイス』は、マーライオンのディスコグラフィーにおいてもっとも静かで、どこか沈鬱で、けれども時に攻撃的で、時に艶やかな作品になっている。汗みずくで歌い散らし、一面的な激しさを見せていたかつてのライブからは想像できないほどマチュアな変化を聞かせる歌声。怒りや感傷よりも、より複雑であいまいな表現が優先されるようになった歌詞。このスーパー・ロング・インタビューでは、そういったマーライオンの変化の道筋を追っている(とともに、この8年の東京ないし横浜のインディー・シーンの貴重な証言にもなっている)。たぶん、これを読み終えるまでに、あなたは『ばらアイス』を繰り返し繰り返し聞くことになるだろう。

下北沢、池袋、黄金町

――マーライオンはキャリアが長いけど、拠点になっていた場所はどこなの?

「その時期によって拠点がちがうんですよ。高校のときは下北のライブハウス――ガレージとかにハシゴしながらでたりとかしてて。とりあえず気持ちを慣れさせるためなんですけど、その姿勢に賛同してもらって、ノルマとかいいからでてよって言われるようになったんです」

――気概がライブハウスのひとに通じたんだ。

「そうです。週5、6回でていたときもあって」

――ほぼ毎日じゃん(笑)。

「そのうち2日がハシゴみたいな(笑)。DaisyBarにでて、向かいのCAVE-BEにでたりとか。Colored Jam(現Music Bar rpm)には最初期のころにでていましたね。大学に入った2011年に地震が起きたんですけど、その直前にぼくの彼女がライブハウスでバイトするって言って、それが(南池袋ミュージック・)オルグだったんです。オルグはこれから絶対におもしろくなるから行ったほうがいいよって彼女に言われて、それではじめて行きました。オルグはたしか、2011年の1月にプレオープンだったんです。で、3月から本営業するっていうときに地震が起きたんですよね。3月21日に見汐(麻衣)さんとかとオルグにはじめてでたんです」

――その日の他の出演者は誰がいたの?

「mmmさんとホッタモモさんですね。みんなソロで、座りながらゆったり観る日でした。そこでミヤジ(宮崎岳史、ミュージック・オルグ店長)さんと馬場(友美)さんに出会うんです。馬場さんがミヤジさんとの腐れ縁で、いつもヘルプでPAやっていて。それはぼくが『日常』(2012年)をだすまえなんですけど、大学は藤沢のほうにあってつまんなかったから、よく都内に行っていたんですよね。
当時、彼女が池袋に住んでいたっていうのもあって、池袋によく行っていたんです。それでオルグのスケジュールをよく見るようになって、よく遊びに行くようになりました。それから(オルグに)でるようになるんですよね」

――そのころはライブをやってなかったの?

「ずーっとやっていますね。そのころは新宿のMARZとかMotionとかにでていました。MARZにでているバンドマンはおごってくれたりとか、優しかったです。その流れで(Club)Asia――ガチのクラブなんですけど――にでる機会もあって」

――Asiaにでたことがあるの(笑)!?

「弾き語りででたんです。めっちゃおもしろいですよね(笑)。いま思うと、けっこういい組み合わせだったんですけどね。OCEANLANEの直江慶さん、(QUATTROの)潮田雄一さん、DJにサニーデイ・サービスの田中(貴)さんとかがででていたりして。
当時、仲のよかった写真を撮っている日芸の友だちがいて、つぎのアルバムのジャケット写真を撮ってよって頼んでいて。だから、オルグでは『日常』の写真撮影をしているんです。その写真の納期があって、ぼく、納期の設定があまかったんですよね、自主制作でつくるやりかたがぜんぜんわかっていなくて。ほんと、ぎりぎりに設定していたんです。でも、その写真を撮ってくれた子が彼氏にふられたかなんかで、失踪しちゃったんですよ、納期の4日前に」

――ははは!

「連絡がつかなくなっちゃって。で、どうしようってなって。締め切りに遅れそうってなったときに流通のひとがめっちゃこわくなって、『えっ、これがおとなか……』って思いました。それで、竹内(道宏)さんにイラストを1日で描いてもらったんです。結果的には、ぼくは(『日常』のアートワークを)気に入っているからぜんぜんいいんですけど。その10日後くらいに、写真を撮ってくれた子から、『いま戻りました……』って連絡があって(笑)。
『日常』のレコ発には(スカートの)澤部(渡)さんがでてくださったんですよ。澤部さんとはそのまえに、Colored Jamでのぼくの弾き語りのイベントにでてくれていて。今度はバンド編成ででてもらえませんか?って頼んで。そのときにはじめて(佐藤)優介さんと会ったんですよね。そのころのスカートのライブはメドレーで、MCなしでよくやっていたころでした。
大学卒業後は黄金町の試聴室(その2)ですね。ぼくの実家は横浜の郊外のほうなんですが、地元でふつうに就職してはたらいていたので(好都合だった)。(試聴室には)三沢(洋紀)さんがいらっしゃったっていうのもあるんですけど」

秋のデモCD

――今日は『秋のデモCD』のはなしをしたいなと思っていたんだよね。マーライオンの公式のディスコグラフィーにも載っていない幻のアルバムなんだけど(笑)。

「ぼくがバンドを観に行って買っていたような、枚数限定とか、あきらかに枚数を刷っていないデモCDって(ディスコグラフィーに)載ってないことが多かったんです。そっちのほうがぼくはうれしくて」

――じゃあ、あえて載せていないんだ。

「あえてです」

――『秋のデモCD』は2013年?

「そうだったと思います」

――オルグで録ったんでしょ? あの作品の制作について聞きたいな。

「あれは『19才』のあとですね。そのレコ発で曽我部(恵一)さんといっしょにやらせていただいた(2013年3月30日、31日、『曽我部恵一とマーライオンの〈キラキラでニヤニヤ〉』)はいいんですけど、当時は大学3年で、就活を考えなきゃいけない時期になってきたんですよね。でも、曲はつくっていたんです、ずっと。けど、お金もなかったし、プレスするのは大変だなって思って。曲はあるから、ひとまず記録として録りたいんですけど、馬場さんどうです?って聞いて、馬場さんが『オルグだったらいつでもいいよ』って言ってくれて、録ったんです。それが夏だったかな? ほんとう、さらっと録って。
ぼくがあつかいにくいミュージシャンだからかもしれないんですけど(笑)、馬場さんが気をつかってくれて、いつ曲をはじめるかがわからないから、とりあえず(レコーダーを)まわしっぱなしにしてくれてたんです。いつでもいいから、しゃべり途中でもいいからって。馬場さんとやっていて、そのときがいちばんたのしかったですね」

――世間話をしながら録った?

「そうです。馬場さんの彼氏のはなしとか、ミヤジさんのはなしとか、最近はどんなバンドのレコーディングをしてるんですか?とかはなしながら。そのときはミヤジさんもいなかったんですよ。だから馬場さんと2人っきりで。3時間くらいでぱっと録ったんですよね」

――3時間で(笑)!?

「予算がなかったので……。曽我部さんとやったあとに、方便(凌)さんたちとラップをつくるんですよ。それで、“メロウ記念日”ができるんです。すごくいい曲ができたな、いい歌詞が書けたなと思ってうれしくて。ただ、カラオケトラックを用意するのが間に合わなくて、弾き語りでやったらどうなんだろうって思って、『秋のデモCD』にいれたんですよ」

――なんで『秋のデモCD』について聞いたかっていうと、今回の『ばらアイス』と雰囲気が似てるなって思ったんだよね。弾き語りの作品だという点でも。

「似ていますね。『ばらアイス』のレコーディングも2、3時間なので(笑)」

――1日でエンジニアと1対1で録ったんだね。

「そうです。『ばらアイス』はほぼ曲順通りにやってるんです。7曲めまではそのままです。“ばらアイス”を1回やって、失敗して、2、3テイク録って、3、4テイクめで収録版ができて。そこから調子がよくなってきたなって感じで、7曲めまでやって。それで1時間くらい。予約した時間があと1時間は余っていたからいけるな、収録する予定のなかった曲もできるなって思って。最初は5曲くらいのEPをつくるつもりだったんです。そういう流れが『秋のデモCD』と似てますね」

――『秋のデモCD』も演奏した順で収録されているの?

「ほぼそうですね。どうしても気になるところは変えたと思うんですけど」

――『秋のデモCD』の収録曲から『吐いたぶんだけ強くなる』、『ボーイミーツガール』、『マーtodaライtodaオォォォン!!!』の3部作に再録されていったんだよね。

「そうですね」

――『秋のデモCD』を売ったのも、オルグでライブをやった日(2013年10月31日、共演:白波多カミン、水野寝地)だったよね。

「あの日だけですね。それで売り切ったので」

――プラ板がついてる装丁で。

「地味に手が込んでいるんです。そのときは就活をはじめるから、ライブ活動をやめようと思っていたんですよ。就活が長引くかもしれないからと思って『秋のデモCD』を録りました。このままだとつぎの作品がいつだせるかもわからないし、どうしたらいいんだみたいな、超暗い気持ちでやってたんです、ほんとに」

――『秋のデモCD』は就活を控えて、鬱屈してた時期につくったの?

「そうです。ちょうど彼女にふられたときだったんですよ。めっちゃどんよりしていましたね。どうしたらいいかわからないみたいな。
(就活のまえに)最後にオルグでやんなきゃって思っていたときに、いまはSouth Penguinをやってるアカツカくんが、『マーさん、やりましょうよ』って言ってくれたんです。アカツカくんのイベント(12月9日、共演:音楽と女の子、スッパバンド、Yogee New Waves)だから、新曲をつくってやろうって思って、“ボーイミーツガール”ができて、はじめてひとまえでやったんですよね。それがすごくいい曲で、これはきっとアルバムのリード曲になるんだろうなとか思いながら、ライブを休止するんです。
“ボーイミーツガール”はライブの直前にできた曲だったので、『秋のデモCD』には入ってないんです。こんな曲をやってもいいのかなって不安になりながらもやりました」

――それで就活をはじめるんだ。『秋のデモCD』は『19才』と3部作とのあいだの空白を埋める作品だよね。

「けっこう重要でしたね。すっかり忘れていた(笑)。50枚も刷ってないと思うんですけど」

マーライオン3部作

――そのあと、2014年末から2015年の1月にかけてリリースされることになる『吐いたぶんだけ強くなる』、『ボーイミーツガール』、『マーtodaライtodaオォォォン!!!』の3部作を制作するんだよね。

「そうですね。2014年の6月に就活が終わったんですよ。就活が終わった足で三輪二郎さんの『III』のレコ発が試聴室であったので、遊びに行ったんです。そのときに物販をやっていらっしゃったのがディスクユニオンの金野(篤)さんでした。金野さんに、曲がものすごくあるんですけどどうやってだしたらいんですか?って聞いたら、うちでだす?って言ってくれて。
その3日後とかに、星川っていう相鉄線のローカル駅があるんですけど、そこのドトールで打ち合わせしたんです。3作ぶんのアルバムのテーマが決まっていることを伝えたら、これはおもしろいから絶対にやったほうがいいよって言ってくれて。ぼくはそれを1枚にまとめようと思っていたんですけど、金野さんに『いやいや、全部やろうよ』って言われて(笑)。バンドメンバーはベースが見つかってなかったから、東京塩麹の額田(大志)くんに連絡して、それで紹介してもらったのが、いまマーライオンバンドのメンバーとしてやってくれてる初見(元基)くんなんです」

――その前のはなしをちょっと聞きたいんだけど、就活中はずっと曲をつくっていたの?

「つくっていましたね。曲をつくっていたというよりも、歌詞を書いていました。どんどんたまっていって。ちょうど磯部涼さんと九龍ジョーさんの『遊びつかれた朝に』を読んでいたんですよ。ああいうのに載りたいなって思って。
(アルバムの)タイトルはもう決まっていたんです。『吐いたぶんだけ強くなる』と『ボーイミーツガール』にしようって。でも、なん枚も構想があるから、(すべてを制作するのに)何年かかるんだろうって思ってたんです。20代、ぜんぶ費やすのかなあみたいな。でも、いまだしたいって思ってたんです。ライブもしてなくて、いらいらしていて」

――ライブをやると発散できる?

「そうですね……。ライブをやっていないときって、体調悪くなりますもん、ぼく。いまも」

――ははは! マーライオンらしいね。

「3枚のアルバムをつくるのがハードだったので。あれは二度とやりたくないってみんな思っています(笑)。よく方便さんたちがつきあってくれたなってほんとに思うんです。全員がありえないはやさで曲を書いていたんです。“茶道クラブ”なんて、1行もできてないところから4時間くらいでつくって。全員がハイでしたよ」

マーライオンの作曲方法

――マーライオンが曲を書くときは詞が先なの?

「3部作のときは曲と詞が同時だったんですよ」

――それ以前は?

「そのまえは……曲っていうか、『叫び』だったので。じぶんから言葉がでてきたからメモしなきゃ、みたいな」

――なにそれ(笑)。

「とりあえずギターを持って弾いていると、言葉が勝手にでてくるから、それをメモして」

――ははは(笑)。

「高校生のころから大学生のころまで、数年そうでしたね。それから変わりはじめて、それっぽいコード進行がわかるようになってきて……」

――「それっぽいコード進行」がわかるようになってきたのはいつ?

「『ボーイミーツガール』ですね」

――最近じゃん(笑)。

「最近ですね(笑)」

――それまでの曲のつくりかたは、ほぼハプニングみたいな?

「そうですね。『吐いたぶんだけ強くなる』は大学1年から2年のなかばまでの曲で、『ボーイミーツガール』は大学2年から3年なんですよ。『吐いたぶんだけ強くなる』の曲はキーとかが歌いにくくてしょうがないので、ほぼ再現不可能なんです(笑)」

――ははは(笑)。

「だから、弾き語りでほとんどやったことがない曲もあるんです。いまもってぼく、練習していますもん、(演奏)できるように」

――ははは! じぶんでつくった曲が演奏できないんだ。

「そうなんですよ。『ボーイミーツガール』はじぶんのキーをわかったうえでつくっているので、歌えるんです」

――マーライオンが作曲についてはなしているインタビューって見たことなくって、どういうふうにつくっているんだろうと思っていたんだけど。

「言ったことないですね。聞かれたことがないですもん」

――ははは! 方便も「マーライオンの曲のコード進行は特殊でおもしろい」って言っていたよ。

「ちょっと楽器をだしましょうか(ギターを取り出す)。どうやってつくっているのかお見せします。他人のライブを観るときに、会場によってはコードが見えない、こっち(上手側)から観るときがあるじゃないですか。たとえば、澤部さんのここ(左手)の動きを見たりして、あっ、これはいい曲だなとか。ぼくの場合はライブを観ることが、最初の音楽の聞きかただったんです」

――レコードじゃなくて?

「レコードじゃなくて。だから、(ライブで見た)この手の動きで曲をつくっているんです」

――ははは!

「ほんとうにそうなんですよ(笑)。(ギターを弾きながら)こうなって、こうなって、こうなったらいいかなとか」

――左手の、ギターのネックの上下の動きっていうこと?

「そうです。“蚊帳の外 街の中”はほんとうに『動き』でつくったんです。こういったらいいかな、あっ、こうかなって」

――そうやってアコギで弾いているのを聞くと、“蚊帳の外 街の中”はちょっとスカートっぽいかもね。

「そうかもしれないですね。(じぶんの曲が)じぶんが聞いている音楽に似はじめるようになったのが、よくも悪くも『ボーイミーツガール』からなので」

――なるほどね。これは聞いてみたかったんだけど、マーライオンってほかの音楽に影響されることってあるの?

「いや、ありますよ(笑)! ほんとうは音楽をつくりたかったのに、『ニヤニヤロックンロール全曲集』と『ニヤニヤロックンロールベスト』(2010年)は『叫び』でしかない――歌いたいのに叫びになっちゃうっていうのが悩みだったんですよ」

――ふふふ(笑)。

「『日常』の曲から変わってきて――大学に入学したときにカポを買うんですよ。ぼくのなかで、カポはすごく革新的なもので。なんでいままでつかわなかったんだろうって。カポですべて解決。それで曲ができるようになって。やっと、メロディーってこういうものなんじゃないかなって思えるようになりました。
コードの見えない角度からライブを観ているときにコードを想像するのがたのしくて。聞いただけで(コードが)わかるひともいると思うんですけど、どうやって押さえてるのかな?って想像するほうがたのしい。自分もそうありたいなって思って。方便さんいわく、これはCらしいんですけど……(ギターを弾く)」

――自分でコード・ヴォイシングを発明しているんだ。

「そうですね。こういうのを曲のどこかで1か所だけまぜるのがすきなんです」

――なんとなく押さえたヴォイシングがなぜか和音になっている(笑)。

「鍵盤を弾いてくれている金子麻友美さんが言うには、ふつうのコードは3つ(の和音)なんですけど、ぼくのコードは(構成音が)2つなんですよ。それが響きがおかしくなっている理由で。日によって弦のチューニングが若干合っていないことがあって、ライブで不思議に聞こえるときがあるらしくて」

――ははは(笑)。

「金子さんに、ぼくの押さえかたがわからないからコード表をつくってくれって言われて。それで研究した結果、2つしか弾いていなくてどっちにあわせていいかわかんないから、コードを変えてって言われましたね。だから、ソロでしか表現できないっていう曲がぼくにはあるらしくて」

――ははは! 和音になっていないんだ。

「そうなんです。和音になっていないから成り立ってる」

――和音じゃないって、それは不協和音、ノイズじゃん(笑)。

「そうなんですよ(笑)。3部作のレコーディングの期間でじぶんが弾いている音をめっちゃ聞いていたんです。で、声の出しかたとか聞こえかたとかがわかったので、耳がよくなったんですよ」

――バンドでやって、金子さんや方便と一緒にやったことで?

「そうですね。その影響がずっと残っちゃって、じぶんがつくる曲が他人の曲っぽく聞こえることがはじめてあったんですよ。スタートラインに立つ段階にやっと来たのかみたいな(笑)」

――ははは! たとえば、むかしだったら、ボブ・ディランの曲をコピーしたとか、レッド・ツェッペリンの“天国への階段”をコピーしたとか、その段階を経てから曲をつくりはじめるんだよね。マーライオンの場合はそうじゃないわけだ。

「ぼくは高校2年生のときにコピーバンドをやるんですけど、文化祭の前日にドラムのメンバーから『あしたからあたらしいボーカルがはいるから、もう来なくていいよ』って言われて、脱けざるをえなくなって。だから、コピーの経験がTHE BACK HORNしかないんですよ(笑)」

――ふふふ(笑)。

「それしかなくて、そのつぎはじぶんの曲。だから『叫び』なんです」

――コピーの経験はほとんどなくて、ライブでギタリストの腕の動き――しかもコードが見えない位置から――を見て、曲をつくっていた?

「そうです。こう押さえてるのかな?それっぽいからこれでいこう!って、けっこう軽いノリで(笑)。だから、ライブを観ているときに曲のアイディアが浮かぶことが多いです。教えてくれてありがとうございます!って思いますね。『ボーイ・ミーツ・ガール』の“サウンドオブミュージック”で方便さんたちがおもしろがっていたのが、こういうコードがあって(ギターを弾く)、ぼくは響きがきれいだと思うんですけど、音がぶつかりまくっているらしくて。和音になっていないんですよね。でも、そういうところがじぶんのいいところなのかなと思っています」

――マーライオン以外にそういう曲のつくりかたをしているひとはいないと思う(笑)。

「そうですよね。『ばらアイス』は……はじめて曲ができない、スランプみたいな時期があったんですよ、3部作をだし終わったあとに。ネタをぜんぶだしたので。だしきっちゃって、どうしようって。それで、また手の動きで、ああ、これはいけそうだぞって思いながらつくったのが“ばらアイス”で、それがけっこう糸口になって」

――マーライオンらしい作曲法に立ち返ったんだ。

「“ばらアイス”のコードもめっちゃ音がぶつかっているんですよね。バンドメンバー泣かせなんです」

――鍵盤奏者はこまるだろうね。だれだったか忘れたけど、鍵盤はディジタルな楽器だと言っていたんだよね。音階を均等に分けて、それがキーに対応している。だから、グリッドに分けられた、どこかコンピューター的なものだと。でも、ギターはもうちょっとあいまいなことができる。

「そうですね。その意味でも、ぼくはギターがすきなので」

――鍵盤だとマーライオンの曲は再現できないっていうのはおもしろいね。

「できないですね。ほんとうにニュアンスが変わるんですよね。音がぶつかりすぎていて、和音になっていないっていうのがぼくとバンドをやるときに問題があるんですけど、いまのマーライオンバンドのメンバーはジャズ出身なので、それをおもしろがってくれるんです。ポップスじゃなくてジャズだから、相性がいいんですよね」

――コードがあいまいでも受け入れてくれる?

「そうですね。どうしても(音が)ぶつかってしまうので、多少はどうにかしないといけないんですけど、笑ってくれるんですよね。そういう意味でも大谷(能生)さんはすごい評価してくれてて」

大谷能生とマーライオンの崖から落ちてみる

――大谷さんと出会ったのはいつ?

「大谷さんは試聴室によく飲みに来てて――出演もされてましたけど。『東京大学のアルバート・アイラー』とかは読んでいましたけど、相対性理論とやってるイメージしかなかったんです。こわいひとなのかなあとか思ってて、最初はほとんどしゃべれなかったんです。
そのあとに京浜兄弟社ボックス(『21世紀の京浜兄弟者 -History of K-HIN Bros. Co. 1982~1994-』)がディスクユニオンからでて、ぼくはすごいどはまりしてたんですよね――お金がなかったから彼女と折半して買ったんです(笑)。『京浜兄弟社ボックスはいいですよね』ってはなしをしていたら、大谷さんが『あれを買ってる20代はいないから、いっしょにイベントやろうよ!』って言ってくれて。ぼくが京浜兄弟社ボックスを聞いているって言ったら、大谷さんはあきらかに目の色を輝かせていたので(笑)、たぶんあれがきっかけなんじゃないかなと思うんですけど」

――なんで京浜兄弟社ボックスを買ったの?

「『たまこマーケット』に影響を受けて“ボーイミーツガール”をつくっているくらい、マニュアル・オブ・エラーズがすきだったんですよね」

――大谷さんと出会ったのはいつごろ?

「2013年だと思います。試聴室に行きはじめたころ、3部作の制作期間中じゃないですかね」

――黄金町の試聴室で大谷さんとのシリーズ企画(「大谷能生さんとマーライオンの崖から落ちてみる」)をやっていたのが……?

「去年、2016年です。勉強になりましたね」

――『ばらアイス』は作品としては3年ぶりなわけだけど、『マーtodaライtodaオォォォン!!!』を2015年の1月にだしたあとはなにをしていたの? 就職して……?

「『マーtoda』をだしたあと、2月(19日)にレコ発があって、大倉の洋館(大倉山記念館)で柴田(聡子)さんとツーマンをやったんですよ。ほんとうはそのライブ盤をすぐだすつもりだったんです。それと、ぼく主宰のコンピレーション・アルバムを半年くらいかけてつくろうってなっていて、それに着手するんですよね。と、同時に、就職するんですよ。だから、ライブは抑えていたんです。
そのとき、暗いはなしになって申し訳ないんですけど、4月の末くらいにぼくが大学時代、めちゃめちゃ仲のよかった友だちが交通事故で亡くなっちゃうんですよ。でも、いま思えば、そんなにショックだと思っていなかったんですよね、強く取り繕っていたというか。会社に入ったっていう日々の環境の変化に対応しようっていうので手いっぱいすぎて。
その年の夏には、滝沢朋恵さんとか、友だちのミュージシャンと大阪や鳥取に行ったりもしていました。ぼく、小さいころから旅行に行く家庭じゃなかったので、はじめて旅行に行ったような気持になったんです。ぼくの曲って地名や固有名詞が多いんですよ。でも、あまりにもものを知らなさすぎるなって思って。つぎのアルバムは固有名詞を絶対にださないって思って。(歌詞に)場所がでてきちゃうと、(ほかの場所で)歌えなくなっちゃうんですよ。だから、(土地に)限定されないポップスをつくろうって思って。ただ、ものすごく(友人が亡くなったという)ショックが長引いていたんです。
3部作はライターさんとかにお渡しするタイミングがずれちゃったりして、聞いてもらえなかったりとか、(メディアに)書いてもらえる機会があんまりなかったんですよね。それはぼくの力量不足っていうのもあるんですけど。そのときにすごくへこんで。誰が聞いてくれているんだろう?みたいな閉塞感がすごくて。
とはいえ、ライブ・アルバムもだすし、コンピもだすからがんばろうって思っていたんですね。そのときに、コンピが頓挫するんです。それで、気持ちが追いつかなくなって」

――3部作のあと、2015年は“ばらアイス”のシングルをだそうと思っていたけど、だせなかったと言っていたよね?

「いままでシングルをだしたことがなかったので、いい曲をつくってシングルをだそうって思っていたんです。ライブ盤、シングル、コンピ・アルバムの3つを2015年から2016年にかけてだそうとしていました。ライブ盤は著作権の申請にすごく時間がかかって、そのときは疲れきっていて、それをやる元気がなかったんです。(ライブ盤の)『19才』をだしたので、つぎは『22才』とか、シリーズでやろうかなと思っていたんですけど。
自主でだそうって思ったのも、大谷さんのイベントがきっかけなんです。自主でやるべきか、ディレクターやプロデューサーを立ててやるべきなのかっていうはなしになったんですね。大谷さんは、基本的に音楽を手伝おうとするやつはクソだっていう考えで(笑)、それに賛同できるわけではないですけど、基本的には自分自身でやりなさいって言われたんです」

――セルフ・プロデュースをしろと。

「そうです。できるのに、なんでやらないんだって言われて」

――怒られている(笑)。

「『崖から落ちてみる』ってイベントなので、基本的に怒られるんです。
3部作をだしたあと、ほかのレーベルに移籍して新作をださなきゃって思っていたんですけど、そういうミュージシャンの既成概念からはずれないといけない気がしていて。いま、正直、どこ(のレーベル)からだしても変わらないと思うんですよ。プロモーション費とかはぜんぜんちがいますけど。でも、結局、ひと対ひとのはなしだから、直接会ってはなしたりするのがいちばんいいんじゃないかと思っています。調べてみると、雑貨屋さんとか、全国におもしろいお店がいっぱいあるんですよ。そういうお店のひとに会って、気持ちよく売ってもらうほうがいいんじゃないかって思いはじめて。
倉敷に旅行にいったときに、児島(ジーンズストリート)っていう日本のジーンズ発祥の地があって、そこのお店のひとが見たこともないようないい顔でジーンズを売っているんですね。そういうお店に卸してたり、手売りしていけばいいんじゃないかなあと思って。そういう発想にようやくなれたというか。時間がかかりすぎなんですけど(笑)」

(後編につづく)