KUMIKO(ボウリングの思い出)

ボウリング場に初めて行ったのは、中学生のときだ。

同じ部活にいた仲のいい友達数人で、学校近くのボウリング場へ行くことになった。

この頃の話だが中学校にあがると、それぞれの家庭環境の経済状況に差があるのがわかってきた。

両親とボウリング場に来たことがある人もそれなりにいたが、僕はその中でも、あまり家族とどこかへ行く機会がなかった子供だった。

そんな理由もあって、友達からボウリング場に初めて誘ってもらった時は本当に心から嬉しかったのを覚えている。

当日、駅前で待ち合わせをして、ボウリング場へ向かった。

レンタルシューズや球の重さや種類を選ぶのも、まるで旅行にきたような気持ちになってワクワクした。

係員の案内に沿ってボウリングのレーンに行き、そこでみんなと5ゲームやることになった。

ふと周りを見渡すと、何組か集団で遊んでいるレーンがあり、ちょうど自分たちの左隣には「くみこ」と画面に書かれたまま予約表示になっているレーンがあった。

「ボウリングって予約できるのか、予約するぐらいだからボウリング好きなひとなんだろうなあ」とその時は思った。

1ゲームか2ゲームをした頃だったか、しばらくするとその予約席の「くみこ」がやってきた。

驚いたことにくみこは明らかに極道の方だったようで、首すじには上半身から漏れ出た竜の刺青がこんにちはをして、「姉さん何ゲームやるんですか?」「姉さんのボウルは僕らが用意します」と口々にした明らかに怖いお兄さんたち2人が連れ添ってやってきた。

僕たちは驚愕した。

初めて絵に描いたような人たちを目の当たりにしたからだ。

「くみこ」は目つきがきつく、ただ立ち姿は美しいお姉さんだった。

それまでの僕らは初めて友達ときたボウリング場だったので、明らかにはしゃいでいたが、ここは静かにしようと耳打ちをして落ち着いてゲームをしていた。

「ここは、残りのゲームをさっとやってからすぐ帰ろうぜ」と小声でみんなと話をした。

怖くて絶対に関わりたくなかったのだ。

そして肝心のボウリングだが、僕はめちゃくちゃ下手だった。

1ゲームが終わった頃には、明らかに自分にボウリングの才能はないと悟っていた。ビギナーズラックというのもなかった。

そんな僕でも何か工夫したらストライクが出せるんじゃないかと、ありとあらゆる投げ方を試していた。もはやゲームではなく、投げ方の実験と称した時間潰しになっていた。

とある番手の時に、僕はボウリングのボールをバウンドさせたあとガーターにしてしまった。

友達に「またガーターになっちゃったよ」なんて言いながら戻ったところで、思わぬところから声が飛んできた。

「ボウリングがあんたたちわかってない!!!」

声をした方向を見ると、まさかのクミコだった。

「ボウリングはボウルをバウンドさせたら、レーンが傷つくの!そんなことも知らないの?」

今思えば真っ当な大人で、正しいことしか言っていないが、当時の僕たちにとっては刺青を入れて怖いお兄さんたちを連れたお姉さんから言われたら震え上がった。

「すみません!これからは気をつけます。」

そんなことを言うと、くみこは言った。

「わかった。私がボウリングを教えてあげる」

頼んでいないが、教えてもらうことになった。

そこからはめちゃくちゃ怖かった。

怖いお兄さんたちが「姉さん、何を中学生に教えてんすか」「そろそろ姉さんがボウリングやればいいのに」とか言いつつ、お兄さんたちにずっと見張られながらもボウリングのルール、投げ方を教えてもらった。

よくよく話を聞いてみると、くみこは教え方が上手だった。

投げるフォームや力の入れ方を教えてもらい、少しずつだが僕はストライクが出せるようになってきた。

既に経験者だった友達は、くみこと回転の掛け方について議論をしはじめるほど盛り上がった。

「思わぬ場所で思わぬ人間とボウリングを通して話が通じることがあるのか」と僕はその光景にグッと来ていた。

1ゲームほど丁寧に教わったところでくみこは言った。

「よし!あなたたちはだいぶよくなったから、そろそろ私は自分のボウリングに集中するわ」

僕たちは口々に「ありがとうございました!」とお礼を言って、ゲームを続けた。

僕らは残り1ゲーム、くみこはあと3ゲーム丸々あった。

くみこのボウリング、みんなで見てみようぜ、とみんなで小声で話しながら見守った。

くみこが初めて自分でボウルを取り出し(マイボウルを持ってきていた)、1投目を投げた瞬間、右に大幅に回転がかかり凄い勢いでガーターになった。

2投目、またもやピンを前にして急に回転がかかり、勢いよくガーターになった。

3投目、普通にガーターになった。

1ゲーム丸々ガーターになった。

連れの怖いお兄さんたちは笑いを堪えるのに必死で、「あんたたち!笑うんじゃないよ!」と制されていた。

これは後からお兄さんたちに耳打ちで教えてもらったことだが、実はくみこはボウリングがそんなに得意ではなかったのだ。

それでもボウリングが好きだから、自分だけのマイボウルや手袋を持参しては、定期的にボウリングへ来るらしい。

教え方が丁寧だったのと、隣のレーンに口を挟むぐらいだから、てっきり上手かと思っていたので「そんなに得意じゃないのかよ!」と正直思ったけど、ボウリングを楽しんでいる姿に僕は背中を押されるようだった。

人生初のボウリングは、そんな思い出だ。

学校は卒業したけど、あのボウリング場にはまだくみこはいるのだろうか。

くみこの後ろ姿を見て好きこそものの上手なれと言う言葉を思い出した。

その1年後から僕は楽器を始めることになるのだが、よく楽器が難しくて挫折しそうになるとくみこを思い出す。好きでとりあえずやってみることが大事なんだと思う。

入学初日の話

友達になったのに。知り合いにもなれなかった話

大学入学初日の話だ。

僕は早く友達が作りたくてウズウズしていた。    

そんなふうに思いながらガイダンスなどに出席したからだろうか、ひょんなことから隣に座っていたMくんと話が盛り上がった。

今思えば訳がわからないのだが、入学初日に席が隣になったひとと話が盛り上がり、帰り際Mくんから今から僕の家で遊ばないか?と誘われたのだった。

これが世間で言われる〈入学式ハイ〉というやつだ。

そして僕もMくんと同じく、〈入学式ハイ〉というテンションになっていたので行くことにした。

話を聞くとMくんは長崎から神奈川に上京して初めての一人暮らしを始めたそうで、早く友達を招くと言うイベントをやりたかったらしい。

「僕がそのイベントの初めてでいいの?」と聞くと、彼は「もちろんじゃないか」と言ってくれた。僕は少し怖かったが、同時にこんなにすぐ心を開いてくれて有難いなとも思った。

さすがに今日会ったばかりの人の家にお邪魔するのは勇気が必要だったが、音楽活動を始めて何年か経っていて、それなりの数のお家に行く機会もあったし、なんとなくだが流れに身を任せてお家に行くことにした。

Mくんの家は木造のアパートで、優しそうな口ぶりから分かるようなすごく綺麗に整理整頓された部屋だった。

真新しいソファに座りながら、「大学に入ったら彼女ほしいなあ」と言っていた彼の顔からは、春の匂いがしてきて僕はMくんを友達として好きになり始めていた。

しばらくお互いの身の上話や、高校時代の話をしたあと、「ゲームはするかい?」と聞かれた。

僕は正直ゲームはあまりやらないので、Mくんには正直にそのことを伝えたところ、「スマブラだったらできる?やろうよ!」と言われた。

僕は嬉しかった!なぜならスマブラは僕が唯一できる好きなゲームだったからだ。

そこからは白熱した戦いになった。

何試合もやって、お互い楽しく笑いながら盛り上がった。

18:00ぐらいになると、すっかり暗くなってきた。

僕は入学初日で遅くまでいるのも悪いからと、連絡先を交換してその日は早めに帰った。

「また学校でね!」と言い合って。

その後、Mくんとは数日会わなかった。

Mくんとはガイダンスで知り合ったはいいものの、学科が違ったので授業も一緒にならないまま会う機会がなかったのだ。

そして1週間ほど経った校舎の廊下で、僕はM君を見つけた。

「あっ!Mくんじゃん!おーい!」と声をかけながら僕は近づいた。

「こないだのスマブラ楽しかったねー!ほんとありがとう!」と言うと、キョトンとした顔。

Mくんの周りには、Mくんの友達がら複数人いて「急にすみません!Mくんとは入学のガイダンスで知り合って、お家まで行ってスマブラして仲良くなったんですよ」と説明したところ、周りの友人たちがほっとしたような顔をして、応対をしてくれた。

僕がMくんの周りの友人にも自己紹介をし始めたところで、会話は遮られた。

Mくんは言った。

「ぼく、この人知らない」

驚愕の一言だった。

大富豪の革命か、と思うような状況の変わり方だった。

Mくんの周りにいた友人たちは「えっ、どういうこと?」みたいになり、さぁーっと場が凍りつき僕は完全に不審者扱いになった。

「またまたー、そんなこと言って」

「ぼく、この人知らないよ」

「連絡先も交換したじゃん」

「このメールアドレスは僕だけど、僕じゃないよ」

「えっ!」

「えっ!!」

Mくんの周りの友人も察して

「そういうことだから!」

と僕をその場から立ち去るように伝えてきた。

僕は納得がいかなかった。

「あんなに楽しくスマブラをしたのになぁ」

まるで子供の頃に行ったデパートのゲームコーナーで知り合った、二度と会えないちょっと気のいい高学年の兄ちゃんのように、楽しい幻だったんじゃないかと思った。

今でもスマブラをしていると、Mくんのことを思い出す。

あの楽しそうに笑った声は、僕の記憶には残っている。

Mくんにとってはもしかしたら初めての友達を招くイベントにしては気に入らなかった過ごし方だったのかもしれないが、僕はあのときのスマブラ楽しかったなと今も思う。ほんとに。

初めてのひとり暮らし(パワハラ企業編)

狛江に住んでいた時期は僕にとって人生でも指折りで大変な時期で、働きたくても働けない期間だった。

新卒で入社した会社が絵に描いたようなパワハラ企業で4月に150人いた同期が翌年には70人に減っていった。
2年目の中盤では30人になっていたと思う。

僕は音楽がやりたかったから会社のことはあまり考えないようにしてたのと、新卒時に受かった会社がここだけだったと言うのが気になっていて、転職活動しても受からないんじゃないかとか、色々理由をなんとか言って怖くて悩んでいたのだった。当時は自信と行動する元気がなかった。

そしてそんな2年目の冬に、ある先輩社員ととある住宅街に一緒に営業へ行った。
この先輩社員は、若手社員をボコボコにして再起不能(退社orうつ病)にさせることとお客さんから訴訟を起こされることで有名で、それでもなぜか処分されないので、ついたあだ名はコネクションクソ野郎だった。(会社はザ・昭和の会社だった)噂では取締役役員の甥っ子とのことで、誰も首にできなかったらしい。怖い話だ。これ平成の話だぞ。

正直びくびくしながら同行して、4軒目を周り終わったときに「もう夜だから帰りますか」と僕が提案したところ「もう一軒いく」と言い始めた。

こんなふうに言い出したら止まらない社員だったので、僕は「仕方がないか..」と渋々ついていくことにした。

そしてアポイントを電話で強引にとって、訪問した家はとある老夫婦のご自宅だった。

業務の説明をして、なにがなんでも契約を取ろうとする先輩社員に対して老夫婦はドン引いていた。しまいには老夫婦が2人揃って土下座した。
「お願いですから、もう夜遅いので帰ってください」と頼んできたのだ。

僕はそれまでも営業を他の人と組んで、様々なお家へ訪問する仕事をしてきたから、これは大変なことが起きていると認識した。老人の土下座ほど見ていられないものはないと思った。かわいそうで、すごく惨めだった。そして申し訳ない気持ちと、こんなくそみたい社員と同行している自分を恥じた。
昔小学校のときに見た第二次世界大戦の頃をまとめた写真集を思い出した。戦争ってこういうことなのかなと思った。

「さすがに帰りましょう!」と僕が先輩社員に強く言ってもそれでも帰ろうとせず、だんだんと腹が立っていた僕はとうとう耐えかねて社員の胴体を抱え込む形で「いいかげん帰りましょう!!」と強く言い放つと先輩はなぜか僕をソファに押し倒して殴りつけてきたのだった。何が起きたのか僕は認識できず、気づけば3発も殴られた。

お客さん宅の素敵なソファで後輩社員の僕に暴行を働く社員を見て慄いた老夫婦が止めに入り、「警察を呼びますよ」と叫び暴行は止んだ。(今にして思えば呼んで貰えばよかった)

老夫婦は帰りがけ、その社員に「後輩を殴るような奴は地獄に落ちるぞ」と凄い剣幕で言い放って玄関の扉を閉めた。(実際この社員は数年後大事故を起こし、全治3年の再起不能の大怪我を負ったらしい、人の恨みを買い続けた結果だと僕は見ている。)

僕は老人が本気で怒っている顔を見たのがこのとき初めてで、その剣幕の凄さに年輪と年の功を感じて感動したのだった。

そして意味もわからず殴られた僕は仕事ができなくなった。翌週体調を崩し抑うつの診断になった。

それから毎日、なんとなく起きては寝てを繰り返した。
曲が作れるかなと思ったけど、元気がないから特にそんなことはなかった。
急に暇になったのと、この状況を心配してみかねた恋人がハワイに連れ出してくれて10日間ほど旅行をした。

すると、それまではまるで元気じゃなかったのが笑ってしまうぐらいみるみる元気を取り戻した。毎日ワイキキビーチで浮き輪にプカプカ乗って、日光浴をした。村上春樹作、海辺のカフカのような生活だった。

パンケーキを食べ、ウクレレ工場見学をして、海に浮かび楽しく散歩をして、それはそれはこの世の楽園じゃないかと思うぐらい楽しく過ごした。
ハワイの現地レコード屋では半額セールが開催されていて、今では手に入れられないような価格で数々の名盤を手にしたのだった。恋人と一緒に新しい旅行鞄まで買って、バイヤーのごとくレコードを買って帰国した。修学旅行以外で初めて自主的にいく海外旅行だった。

日本に帰国する頃には、すっかり元気を取り戻し
しっかり3ヶ月ほど休んだのがうまくいったので職場復帰をすることになった。

しかし、元気になり仕事復帰前々日のところで、とあるとんでもないニュースが飛んできた。

総務部の人間が仕事をしていなくて復帰手続きをしていなかったのが分かったのだ。
僕は忘れていた。戻ろうとしていた会社はとんでもない会社だったことを。それでも転職活動をする元気はまだなく渋々戻ることにしたのだった。

そしてこの総務部の人間は、他の関連会社部署からも嫌われている人で、昔から総務部に絡めた嫌がらせを嫌な社員にしてくる在籍15年目のくそ野郎だった。

これがきっかけで追加で無意味に3ヶ月休むことになった。(これはいまだに謎)

僕は元気になっていたので、今度の3ヶ月間はアルバム制作に集中した。
この時に完成したのが「ばらアイス」だ。
改めて思うのは休むと言うのは無駄じゃないのだ。本当に。名盤ができた。

ハワイ旅行でお金を使い果たした頃だったので製作費は6000円だった。

歌とギターさえあれば、いい作品が作れると言うのがわかったアルバムだ。

本当に素晴らしい作品だと自負している。
聞いたことない方はぜひこれを機に聴いてみてほしい

(数年後に尊敬している曽我部恵一さんとドライブをしている時に、マーライオンのばらアイスは、玉置浩二さんのアルバムにも似てると言われたことがあった。
調べてみるとそのアルバムは玉置さんが精神病棟から帰ってきた時に作ったアルバムだそうで、なんとなく同じ匂いを感じるのだそうだ。
ぜひ合わせて聴き比べてみてほしい。僕も聞いたけど、同じ温度感だと思ったし、抑うつから健康状態に戻る時だからこそ現れる良い歌があるのかもしれない)

そして、僕は謎の3ヶ月間を足した6ヶ月の休みを満喫してようやく復帰した。ここで驚くべきことがわかった。

総務部の人間が変わり者で、なぜか僕の働く時間はよくわからない理由をつけ短縮になった。(今思えばこれは確実にいじめだった)

5時間労働のみで働くしかなくなり、僕は給与が減った。急な変更で大変に困ったのでプラスして音楽の印税で生計を立てた。
このとき音楽の印税がなかったら確実に路頭に迷っていたので、副業をしていた自分に感謝していた。芸は身を助けるというのはこのことだ。
たまにお金がない時は駅前で歌を歌ったり、漫談をしてお金をもらったりした。

謎の流れで5時間労働にさせられた僕だったが、
ひとつよかったのは一度休みを挟んだことで、なぜか営業能力が飛躍的に伸びていたことだった。復帰後は別人のように営業スキルが爆発的に向上していた。

お客さんが考えていることが手に取るようにわかり、的確に欲しい言葉と要望を叶えられる提案をしていった。

5時間労働にも関わらず、1日3軒の契約をその日にとってくるなど、飛び込み営業を主軸とした技術を身に付けたのだった。

時にはお客さんのお家にあったギターをお借りしてお子さんに楽器を教えたり、歌って盛り上げた。芸があることで人に喜んでもらうのは本当に楽しかった。これは駅前で夜歌ったりした効果が出ていたと思う。

こんなことをしている訪問販売の人間はいないようで、僕も私も!と地域の方々がまた別の方々を紹介をしてくれるようになった。
親戚やそのご近所の方々が、僕の話を聞きに集まってきたのだった。これは今にして思えばすごく嬉しかった。音楽が関係ない仕事でも音楽と絡めて伝えられることがあるんだと実感した。

当時、POPEYEに掲載されていた20歳のときなにをしていた?という企画で笑福亭鶴瓶が笑っていたらなんとかなると言っていたが、本当に笑いながら歌って営業をしていたらなんとかなったのだった。それ以来その教え?を参考にしつつなるべく笑顔でいようと思っている。

こうして営業成績が伸び、3年目の冬に新人賞をとったあと僕は円満退社をした。営業能力を身につけ音楽制作に集中することになったのだった。
コロナ禍を経た今、飛び込み営業をしながら身につけた営業能力はかけがえのないものになった。たぶん今はもうできないと思う。